紅の秘宝

〜神々の目醒め〜

無我と四魔

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『Women of Wisdom 智慧の女たち』

チベットの女性覚者の評伝であり、私のバイブルでもある面白い一冊です。
何度も読む中で、毎回異なる気づきと学びがあります。



読んでいて気になる箇所が沢山でてまいりますが、今回は『無我』についての内容を一部抜粋させていただきました。




『無我』
あらゆる場面でこの言葉を聞きますが、これまで今ひとつ理解ができませんでした。
人が語っていたり、ネットで調べていても余計に混乱してしまうこともありました。

今回抜粋されていただいたのは、難しい解釈の内容も丁寧に翻訳されていて、大変読みやすかったからです。
そのおかげで、ようやく私自身の体験と照らし合わせながら無我について知り・確認する事ができました。
もちろん、全てを理解できているわけでもありませんし、解釈を改めなおす点もありますが、書いている内容は至ってシンプルでした。
複雑にしているのは自分自身なんだと改めて思えた内容です。




瞑想をすると、、いつもめまぐるしく揺れ動いていた心が静止する。

↓  簡単に言えば

コップの中の水に泥を落としても、そのままにしておけば次第に底に沈んでいき、水が澄んでいくようなもの。

↓  同様のことが心におこれば

諸物の究極の在り方への理解が心の中に現れはじめる。
この理解こそが智慧である。

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自分には『我』がない=『無我』とは

仏教によると、こうして得られた智慧を通して
自ら成り立っている存在ではないことが理解される。

誤解しないで欲しいのは、全く自分が存在していないという意味ではないのです。


それでは我執(自分に対する執着)をもてるはずもありません。


他に依らない自分が存在するという概念は誤りである。

我がない(無我)…つまり自分というものは他に依って存在しているということに気づけば、
自己の欲望を他者に投影したり
自己を防衛したり
する必要もなくなり、他人に対して慈悲の心をもって接する事も可能となるのです。





《四魔》
『我』と深く関わってくる四つの魔が存在します。



①感覚を妨げる魔
魔の本質を「我があるとする心の機能」であるととらえている。
私達は感覚を通して対象をとらえたり体験したりするが、心がその対象に対して余計な価値判断を加えることによって、その感覚を閉ざしてしまう。


②抑制することのできない魔
思考が散乱した状態をさす。
心があちこちに彷徨い、思考の過程がかき乱される為、人は覚りに到達することができない。


③快楽の魔
快い体験をすると(美味しいものを口にするなど)その快楽に執着し、同じ刺激を更に求めるようになる。
そして自分と快楽の対象の間に立ちはだかるもの全てを排除しようとする。
快楽そのものが魔なのではなく、それに執着する私たちそのものが明知の妨げになっている。


④我の魔
私たちは我によって世界を条件づけている。
この世界観においては「我」と「他者」は分離している。
そして、それこそが明知を妨げ、自己と他者に多くの苦を引き起こす因である。




一切の執着を離れた明知の状態を妨げる四魔は、どれも私達の思考過程にすぎません。
これらは、智慧の欠如から我に執着し、その結果が空性を誤解するところから生み出される。




四魔は誰もが人生に一度は経験済みだとは思います。
私は最近まで ④我の魔 について、考えを改めて見直す機会がありました。

自分の中での分離感には以前から気がついていたのですが、何に分離していたのかまではハッキリと理解できていませんでした。

しかし、私の批判的な我によって他者との分離がうまれていたのだと気がついたときには、長年の問題に終止符をうつかのように、気持ちが急にスッキリしていきました。
その気づきがおきてからは、取り巻く環境や集まる人達が一変してきています。


まだまだ変化の途中段階ではありますが、この様な一つ一つの体験は一生の宝(智慧)となります。
この宝がこれから役立ってまいりますように、今は一歩づつ前進するのみです。